生きてるだけでいい

ちょっと思ったこと。

気持ちが落ち込んでる時限定。

最近見た動画解説とやらで、頑張りすぎる人はありのままの自分を認められないらしい、という動画を見てました。(普段動画とか見ないんだけどたまたま)

それはあがり症克服?用の動画だったらしいのだけど。
私は別にあがり症ではないんですけどね。そんなに。

緊張して本番前に鬼のように練習しないと気がすまないんだって。
それぐらいしないと落ち着かない、って話。
あーそれはななとなくわかる。

その原因が、弱い自分を認められない、ありのままの自分を認められない、という心の動きだそう。

え?そうなn?
よくわからないけど、そうなのですって。

つまり、元々頑張り屋の人tってのは、小さい頃から、ほぼ限界以上に頑張ってる状態で、褒められたり認められてきてるわけ。それなりに。

だけどそこから更に褒められたい、認められたい、ってなったら、
それこそ鬼のように、地が出るほど練習したり努力しなきゃ認められるはずがない、と思い込んでいる、という話でした。

つまり、努力しない状態で認められた、褒められた、という経験がない、という話ね。

元々そこそこできたり、能力があったり、優秀だったりするがゆえの弊害なのかなって感じですけど。

でもさ。

幼稚園児ぐらいの小さい子でもそうなんだけど、
もう既に、みんな褒められたいんだよね。

既に頑張ってるんだよね。

それで大人も、当たり前に、それを褒めたりするんだよね。

よく頑張ったね、できて偉いね、って。

そうするともっともっと、って、
それは、最初は無邪気な渇望であるはずだけど、
それがどんどんエスカレートして、
習いごととか、人と競争しなきゃいけない何かだったりすると
それこそ血のにじむ努力、
それが当たり前、みたいな環境って

まぁ結構普通なんだよね。

怖いよね。日本人って鬼真面目ですよ。えぇ。
皆それぐらいやってる。みたいな、それが普通だったりね。

出来る人なら尚更、
できない人なら、さっさと諦めるって手もあるけど。

中途半端に優秀なぐらいが実はいちばん苦しいかもしれないですね。

周りも期待するし(無意識に)、自分は自分にもっと期待をかけるしね。

 

で、そんな状況って当たり前に大人もその中にいるから。

今も普通に、ありのままの自分、努力しない自分、というものを
認められない人は多いと思う。

できて当たり前。
頑張って当たり前。
努力して当たり前。

何かができたら、えらいね、すごいね、と褒められても。

何もしない状態の自分を、褒めることができるだろうか。

 

私は長いこと引きこもりとか鬱とかいう状態だったんで、
この難しさは痛いほど、ほんとによくわかる。

ただただ非生産な毎日、
仕事もせず、学校にも行けず、
何か実になるようなことは何ひとつできず、
そんな状態で生きる日々ばかりだったから。

それはもう、毎日日課のように自分いじめですよ。
自分サンドバッグ。えぇ。
いいサンドバッグがあるんです。自分という。

それを、褒めるなんてことは、
えぇ、本当に出来る人は少ないんじゃないかなって思う。

非生産的な、何もできない、ウ○コ製造機としかいえないような人生、
そんなものを認められるだろうか。

ってのは、自分にとっての命題でもあるんですけど。

今も時々、そんな精神状態に落ちる時がある。
うん。普通にある。

だけどそんな時に、自分に優しくなれるかしらって。
そんなことを思ってね。

 

だけど。

それでも、そんな命を抱きしめること、
愛おしむこと、
無力な命を受け入れること、

そんなことって、人として
とても大事なことだとも思うのです。

 

例えば新生児をお世話したことがある人ならば、知っているだろうけど

ほんとに小さな赤子というのはね、
本当に儚くて、ともすれば消えてしまいそうな命なんですよね。

ちゃんと息してるかな?
ちゃんとミルクが飲めるかな?
ちゃんと体重が増えているかな?

命が生まれて最初に気にするのは、そんなこと。

本当にそこにいるだけで、
それだけでもなんだかハラハラして
気が気じゃないというか。私だけか?

それぐらいに危なっかしい、
無防備な生命というのは実は、
それぐらい弱く儚いものだと思うのです。

それでもそこにいるだけで、
心がほっこりするような
なんともいえない暖かみを
感じられるのは、小さく新しい生命を迎えた人たちの特権、幸福だと思いますが。

別に赤ちゃんということではなくても。

本当に孤独を知っている人なら、きっと知っているだろう。

ただ人間が一人、ただそこに、
同じ空間にただ、存在してくれるという
その生命力の持つ強さ、暖かみや温もり、包容力というものを

私はやっぱり、一人でいる時間というものがとても多かったので
そういう時ってとても、身体がうすら寒いような、
そんな孤独感が、常にあるんですよね。
それは自分の身体の周りに、というか、空間にというか。

だけど例えば同じ部屋でもいいし
同じ家の中、でもいいんだけど

誰かがいる、ってそれだけで感じる安心感というもの
そういうものはすごく感じてきたし

何なら、誰か、相手がどんな人間であろうとも
とはいえ優しい人の方が嬉しいんだけど
誰かが、別に特別なことをするわけでもなく
他愛もない話をして、笑ってくれること、
何かを話してくれること、
ただそこにいてくれること、

そんな温かさ、
生命の温度、
そんなものに、心の中の寒さを
ずっと助けられてきたことを
自分は知っているので。

特別何かができるとか、
有能であるとか、
そんなこと全然関係ないんだよね。

ただ、生きている人間の生命力の強さ、って
とても貴重で価値があって
愛おしく尊いものだと、思う。

それは特に人間じゃなくてもいいんだけどさ。

例えばペットとか、植物でも。

言葉のない、優しさというか
静かで穏やかな生命力に癒されることもあるし。

そんな感覚は、誰もが知っているものなんじゃないかなって思ったりする。

 

だから。
何が言いたいかっていうと。

頑張らない自分に価値がないなんてことは、ありえないって話。なんだけど。

厳しい環境で生きてきた人ほど、

more better,
よりよい明日を、と努力を重ねてきた人らしいのです。

それは、ドーパミンとセロトニンの話にも通じるのだけど。

セロトニンって今ここ、なんですって。

今ここの幸福。
リラックス。
ただあることの至福。
wellbeing.というのかな。

で。ドーパミンというのは、未来志向なんですって。

前へ進む力。
頑張るチカラ。
開拓精神。
未来を夢見て、報酬を得ようという思考。

これは人類を進化させてきた原動力の力なので、
とても価値あるものではあるんだけど、
ドーパミン過剰って、おかしくなるの知ってますよね。

行き過ぎるとギャンブル依存症とか、
もっともっと、と、報酬系統がおかしくなる。

よりよい明日を、強迫的に求めるようになる。

それが、もしかすると
ありのままの自分を認められないという

弱さを認められない弱さ、なのかもしれない。

 

そんな強迫的に前に進む欲求ばかりに占められてしまっている時は、
一度立ち止まって、

ありのままの自分、

それは、何もできない無力な自分、

そんな弱さを、褒めてあげる必要も
あるのかもしれないなって
そんな風に思います。

 

非生産は無意味なのか

セロトニン過剰になりすぎると、
今ここに安住してしまって、前に進まなくなるとか
努力しなくなるとか
そんな恐怖も出てくるわけだけど

それって本当に無意味なことだろうか、とも思ったりする。

引きこもりデフォルトとしては、
行動しなきゃダメ、結果出さなきゃダメ教は
本当に苦手なところなんですけど。

本当に行動しなきゃだめ?

例えば、非生産に
ただ毎日だらだらして生きている。

それって、本当にだめ?

うつの療養中とか、
そんな日々に付きまとう悩みですけど。

ねぇ。

毎日ぐるぐる悩んじゃうだけで
あー、何もできてない。
今日も何もできてない。
前に進むための行動を、何ひとつdけいなかった。

そんなことで自分を責めることは多いかもなんだけど。

それって本当に無駄なことだと、思っているだろうか。

 

昔、うつのコミュニティにあったんですよね。

毎日自分をひとつ褒めよう、というトピックがあったんだけど。(某MIXI)

そこに注意書きがあってですね。
「今日も頑張って生きた」とかそういうのはだめです、って。

なんでだよ!って突っ込んだの私だけだろうか。笑

息をするだけで精いっぱいの日って絶対あるじゃないですか。

病気だったら尚更さ。

あー、今日も一日無事にやり過ごせた。

あー、何なら、
まじかよ今日も目が覚めてしまった。チッ、まだ生きるのか。みたいな。

そんな日が多いじゃない。

生きてるだけでめっちゃ頑張ってると思うんだけど。

そこはノーカンなんだって。

そういうのやめようよ、って思ったんだけど。

ほんと鬼真面目日本人さぁ。

 

まぁそれはいいんですけど。

例えば、毎日頭ん中ぐるぐる、
あーでもないこーでもない、って
どうでもいいことをずっと考え続けて、
そんなんで一日があっという間に終わっちゃって、
しかもそんな毎日が何年も続いたり。

なんと無駄な人生だろう、と、思うだろうか。(ほぼ私の生き方ですが)

えぇ。そうなんだけどね。
あまり有意義ではないかもしれない、けどね。

あまり好きにはなれないかもしれない、けどね。

だけど、その姿を例えばずっと、
じっと見守っている人々がいるとしたらどうだろうか。

それも一人や二人じゃなく、
例えば何十人とか何百人とか何千人とか。

え。こわっ。
と思うけど。

例えばその人たちが、あなたが考えているその、
どーでもいいどーしょうもない、考え事の一喜一憂に
同じように何かを感じていたり、

それともうむ、よくやっているな、と見守っていた李
やーもうちょっとちゃんとやれよ、と思っているかもだし
何も思わずにただ見ているだけかもしれないし
こっちに行けばいいのにーとさりげなくサインを送っているかもだし

はい、これは何の話かというと、ガイドさんとか
めにみえない存在たちの話ですけど

たぶん、実はそういう目には見えないけれど支えてくれる存在たちが本当に沢山いる中で
そういう有象無象の現象、存在たちのほとんど代表として
実は自分っていう一人は、ここに生きているのだということを考えると

たぶん、人ひとりが頭でほんの一瞬考えたこと、
思ったこと、感じたこと、ってのは

その一瞬に自分に連なる沢山の存在に自動的に伝播しているだろうし
かなりの影響を与えていると思うし

そう思うと、一瞬たりとも
無駄とか無意味とか言って切り捨ててしまったら

実はそういう裏に連なっている存在たちにとても失礼でもあるし
それはたぶん、とても残念だなぁと
悲しいことだと感じている存在もいるだろうし

そしてまた、それだけじゃなくて
もしかしたら、自分を責めること、自分が苦しみを感じていることで
もしかしたらね、自分に恨みを持った存在がいたとしたら
反転的に、それで少しずつ救われていく存在もいるかもしれないしね(そういう考えはあまり持ちたくないものだけど)

そういう見方をしなくても、例えばその苦しい感情は
ただ単に自分が蒔いた因果の種を刈り取っているだけかもしれないし

そこは色んな見方があるとは思うけど。

行動していなからって、
前に進まないからって、
ただ生きてるだけで無駄なことというのは

本当にないだろうと、
そんなこと思うこと自体おこがましいというか
生きてる人間の横暴でもあるだろうし

あらゆる存在の代表としての自覚がないぞ、と
怒られてしまうことかもしれないので

そこはやぱpり、
自分の一挙手一投足を、丁寧に
見つめて、尊ぶこと、
これはとても大事なことであろうとも思うので。

生きてる間にそれが許されるのは、
赤子の間だけなんだけど。

そこは皆記憶に残っていないのでね。難しいとこだよね。

 

そしてまた別の見方をすれば、

自分に連なる存在たちが自分を見つめているだろうという話、
とはまた別に

そんなオカルト信じられねーよ、って人が多いでしょうし。怖いし。たぶん。

じゃあそういう存在たち、とは言わずとも。

自分が感じたほんの一瞬の出来事、
ほんの一瞬の感情、一瞬の思い、

それは、意識下のもっと深いところでは
繋がっている、というのは

何も、自分のご先祖とか、そんなオカルトな人たちだけではなくて。

じゃあ今生きている人たち、
目の前の人々、とも、繋がっていると思っています。

それは、自分が持つ感情と、同じ感情を持つ人たち。

それは集合意識とか言ってもいいんだろうけど。

潜在意識下では、やぱpり全ての人と繋がっているのだと思います。

 

例えば、自分がもう死んでしまいたい、と考えてしまう時。

同じ思いを持つ人って、沢山いるでしょ。
皆表には出さなくても。

心の奥底にそんな思いを抱えている人、沢山いる。

そんな人たちと、ほんとうは一瞬で、その瞬間に繋がっていると思います。
共有していると思う。
無意識下で。

そうして、無意識下では、お互いに共鳴して、共有して、癒し合ったり支え合ったりしていると思うんですよ。私は。

例えばそれは身近な人ではなくても。

例えば電車で隣に座った人かもしれないし。
例えば地球の裏で貧困に苦しむ人かもしれないし。

そんな同じ思いを持つ人と、本当は、繋がっている。

それって何の意味があるのって、
例えば同じ苦しみを持つ人たちが、
例えば何万人といて、
そのうちのだれかが、勇気を出して一歩を踏み出したとしましょう。

そうすると無意識で繋がっていた誰かが
あ、なんか私も、いけそう、
僕も動き出せる、
そんな気持ちになったり、

もちろん、前向きにならなきゃってことでもない。

たとえば誰かが死にたいと思っていた。
それを、自分でなんとか自分を慰めて、思いとどまった。
自分も捨てたもんじゃないよね、そう思ったとしたなら、
そこに繋がっていた誰かも、
あれ?なんか、自分も捨てたもんじゃないのかもな、と
誰か一人でも、その気持ちを拾っている人がいるかもしれない。

つらいよーって思うしかなかったとしても、
その裏には、つらいと口に出すこともできずに、葉を食いしばって耐えている人がいるかもしれない。
その人の代わりに、誰かがつらいよーと口に出して泣くことで
口に出せない誰かのKるシミを、癒しているかもしれない。

 

そんなことが可視化されたのが、インターネットというものかもしれないし。

だけど本当は、無意識下の交流というのは
今も自然と、起こっているものだろうし。

と、そんなことを考えると
生きていることに何一つ
無駄な事なんて、無意味なことなんてないわけなんですが

だけどそんなことはどうでもよくて

ただ単純に、自分という命の暖かみを
尊ぶことができたら、
それってとても大事なことだよねと

あんまり理屈とかどうでもよくて

愛おしむという気持ちだよね。

生きているということは、
本当はただそれだけで、
とても価値のあることなんだと

そんなことを時々、人は思い出すべきだと思う。

前に進もう、という欲求なんて、

それはそう、ただの欲です。

性欲とか承認欲求とかと同じよ。

本当に大切なものは全て皆既に手にしている。

そんなことを時々は思い出して、
自分を慰めたりしています。

はい。そんな感じで。

 

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